幸谷城に祀られていた「お稲荷様」
稲荷神社の由来とご利益
もともとお稲荷様は「稲が生る=いなり」ということから稲に関する神様です。
当社が現在の場所を購入した約50年前は、標高がもっと低く、水田跡地ということもあり水草が生えている状態でした。お稲荷様はその時にはすでに祀られておりました(前持ち主の方は何もしておらず、荒れた状態でした)。幸谷城の周囲に水田があったことから「稲の豊作にご利益があるように」と増尾村の方々が水田を見渡せる幸谷城内に祀ったものだと推測されます。
当社のお稲荷様は「願かけ」の際 一つだけ述べると叶うと昔から伝えられてきております。
参拝の際は、いきなり願い事をするのではなく、まず自分の名前と住所を述べてから、神様に日頃の恩恵への感謝を伝える、または「昨年はケガなく過ごせました」「無事に入試に合格しました」など報告を伝え、最後に心を込めて願い事を一つだけ述べることをお勧めします。
(敷地内にございますが、ご自由にご参拝ください。)
お稲荷様は本来、穀物・農業の神様でしたが、江戸時代、幕府の改革などで名高い田沼意次が、自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けた(将軍の身辺の雑用係から出世して老中になった)という評判が広まり、武士たちや庶民である商人たちもそれにならい商売繁盛や家内安全の神様として祀りはじめました。また、木造建築密集していた当時、 火事も多かったため、災害から守ってくれる神様としても祀られるようになっていきました。現在では家内安全、商売繁盛、厄除、学業成就、縁結び、など生活全般のご利益があると信仰されています。
増尾村のきつね様
「お稲荷様」の眷族(けんぞく)はキツネとされています。眷属(けんぞく)とは、神様の使者という意味です。
キツネは春になると山から里に降りる習性があるので、豊かな実りをもたらす神の使いと考えられたという説があります。1
キツネといっても野山に居る狐ではありません。
眷属様は我々の目には見えません(このことから白(透明)狐といってあがめられています)。
当社のお稲荷様は、増尾城の出城であった幸谷城内に古くから祀られてきたものです。増尾村の方たちが集まる場所で、地元では有名なお稲荷様だったとのこと。
幸谷城が「きつね山」と呼ばれている由縁は、お稲荷様からきているのではないかと考えております。
祠について
祠の歴史
「いつからこの祠があるのだろう?」と思われる方がいらっしゃいます。
以前、この土地の所有者が木を伐採された際、もともとあった古い祠の上に大木が倒れ、土台を残して崩壊してしまったそうです。村の方々が大切にしていたお稲荷様をこのままにはできないと、その時に慌てて新しく建てられたものだと聞いております。
当社では、その後の状態のまま大切にお祀りしており、少なくとも築100年は経過していると推測しております。
居心地の良い住まいを頻繁に変えるのは、お稲荷様に申し訳ないとの思いも込めております。
できるだけ今の祠に長く住んでいただきたいという思いから、防虫に気を付けたり、落ち葉や風雨で傷まぬよう、周囲に囲や屋根を用意するなどの対策をとっております。
神饌(しんせん)について
神棚をおまつりする際の日々の神饌(しんせん)は「米・塩・水」が一般的です。毎日欠かさずお供えするのが良いとされているため、その日に使う最初の水である「初水」を用意し、毎朝当社代表が神棚にお供えしています。(もし初水が用意できない場合でも、「神様に召し上がってください」という気持ちを込めて、その日の水をお供えしております)
また、「旬」のものや珍しいもの、自家製のものをお供えするのが良いと聞き、少々見栄えが悪くても「初物」を必ずお供えするよう心がけております。
ビール好きのお稲荷様?!
「ビール好きなお稲荷様ですか?」とよく質問されますが、実は、当社代表が日頃の感謝を込め、好物である珍しいお酒や限定のビールをお供えしております。
これは「経営がうまくいっているおかげで、こうしたものが手に入る」という感謝の気持ちを表現したものです。
神職の方を招くことがない中で、当社ならではの方法でお祀りを行っております。
石碑について
祠の左側にある石碑について、「お墓ですか?」「記念碑ですか?」と質問をいただくことがあります。
この石碑は、かつて増尾村の方が旅に出る際に道中の無事を祈り、無事に帰った際のお礼として建てられたものだと伝えられています。
また、当社がこの土地を譲り受けた際、すでに存在していたと聞いており、150年以上前のものと推測されます。